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2023.03.01

CuboRexの歩み、そしてこれから

寺嶋と嘉数が出会い、互いに“ないもの”を認め合いCuboRexが生まれ、そして個性をぶつけ合いながら発展を遂げてきた。2023年3月1日、代表が寺嶋から嘉数へと変わり、CuboRexにとっての新たなステージがはじまる。なぜ、このタイミングで代表を交代するのか。“真実”のストーリーをすべて語り、お伝えしたい。
(インタビュー:伊藤)

 

 

【Phase.1】2人の出会い

 

― まずは事業内容からお聞かせください。

 

寺嶋:建築、建設業をはじめ、工業用プラントや農業など、あらゆる不整地産業で活用できる機器やロボットの開発、製造、販売を事業としています。私たちの製品に共通して言えるのは、“不整地で使えるガチなレゴ”というコンセプトに基づいて作られているということ。あらゆる現場、シーンに合わせてカスタマイズが可能で、なおかつどんな場所でも止まらずに走ることができます。

 

 

例えば、建設現場を想像してください。石や岩が点在していたり、草が生えていたり、不規則な傾斜があったりで、ひとつとして同じ現場はありません。従来の重機の場合、岩場があれば、それを崩すという選択肢しかありませんでした。しかし障害物を“避ける”選択肢もあります。また、応用可能な走行装置があれば、それをベースに例えばバイクのような形にカスタマイズして、岩場などを避けることも可能です。実際に現場業務に従事している人たちが、自在に作って利用するということを当たり前にしたい、そんな世界観を目指しています。

 

現場で開発する様子

 

嘉数:現在の製品ラインナップは大きく分けて2つです。ひとつは一輪車の電動化。


手持ちのネコ車のタイヤを取り替えるだけで、簡単に電動化ができるという製品です。一輪車が使用されている現場であればどんな業界でも活用いただけますが、特に柑橘農家さんと土木建設業のユーザーが多くいらっしゃいます。


もうひとつはクローラーユニットで、例えば建築資材を運んだり、海岸を走り、砂浜に埋まっている異物をレーダーで自動で探すなど、様々なロボットへ組み合わせることが可能な走行装置です。


福島第一原発の事故をきっかけに、極地環境で使えるロボットの開発が盛んになり、大学の研究室などが使い勝手の良い足回りを求めていた時期に製品化したこともあり、今でも大学や研究機関、企業の新規事業開発部からご依頼をいただくことが多くあります。

 

左:E-cat kit / 右:CuGov3

 

ー お二人の経歴と出会いを教えてください。

 

寺嶋:私は和歌山県有田郡湯浅町に生まれ和歌山高専でロボコンに取り組み、5年生のときにクローラーなどの不整地産業で使われる技術を研究していました。その成果をもとに、長岡技術科学大学に編入。大学では雪国で使える走行装置の研究をしていました。

 

現在も和歌山高専に展示されている卒業研究成果物

 

嘉数:私は沖縄に生まれ、大学で東京に出てきました。小さいころから科学技術が大好きでしたが、それと同時に商売めいたことも好きで、高校時代には中古CDショップでCDを買い、それをインターネットで売ってそれなりに利益を出してました。経営と工学を両立したいと漠然と考え、大学は経営工学科に進学しました。

 

科学作品展で表彰された様子(当時8歳)

 

寺嶋:嘉数との出会いは、大学4年生のときに参加したテック系の企業を応援するビジネスコンテストの場でした。ビジネスに対する理解があったわけではありませんが、よくわからず大学の先輩に連れてこられたという感じでした。


嘉数:その場はビジネスコンテストでしたが、寺嶋は「ロボットトライアスロン」を発表して“クローラーで遊ぶと楽しいよ!”という趣旨の発表をしていました。それを見て、“変なやつ、面白いやつだなと”という印象でした。


私も大学は工学部でしたが、自分の周りにいる機械系の学生を見ても自分でオリジナルのプロダクトを作る人は2~3%程度。そして、それを外に持ち出して発表している人はさらに少なくなります。なので寺嶋を見たときにはインパクトがありました。とにかくよく分からないし周りもぽかんとしてるがエネルギッシュでレアな人だなと。

 

ビジネスコンテストの様子ビジネスコンテストの様子

 

寺嶋:ビジネスコンテストに出場する人は、企画や課題を実現するための手段としてモノづくりをします。しかし私は企画や課題、市場などは一切無視して、作りたいものを作って出場したので、とてもレアだったということだと今なら理解できます。


嘉数:もちろん寺嶋のような人もいないわけではありませんが、社会人が主体のコンテストなので、そういう人は大学の准教授など年齢がひと回りも上の人です。私は起業しようと本気で考えメンバー集めをしていたので、とにかくユニークで偏った寺嶋に惹かれました。

 

その後は一緒に当時のMakerFaireTokyo2015に出展するなどして交流を深めていました。

 

 

― 嘉数さんは起業しようと思っていたのですね?

 

嘉数:そうですね。実は当時、寺嶋に出会う少し前まで“世の中の自転車をすべて電動バイクにしたい”と思っていました。電動バイクを試作し具体的に事業化に向けて動き始めたのですが、乗り物のビジネスはあらゆる壁が高く、ぽっと出の学生では前に進められませんでした。


しかし電動化の技術はとても面白く、世の中には他に困っていることもあるはずだと考え、たどり着いたのが運搬一輪車ねこ車を電動化する「E-cat kit」の案でした。


そこで試作品を作ってみて、農家や建設会社に持っていったら評判は上々。本格的に事業化を考えていたタイミングで色々な場に出て、仲間集めをしていました。そこで出会ったのが寺嶋だったということです。

 

当時のE-cat kitの開発の様子

 

― そこでお互いがやろうとしていることがしっかり見れたのかと思いますが、率直にどのように感じたのでしょうか。

 

嘉数:私たちは設計思想やモノを作るときの順序がまったく違っていると言うことを実感しました。


寺嶋:そうですね。私はどちらかというと要素技術を極めようとしていましたが、嘉数は売り先から考え、要素技術を組み合わせることでプロダクトを作り上げていました。


嘉数:寺嶋は作ることが目的でしたが、私は役立つもの売れるものを作りたかったので、そもそも何かを開発する出発点、原動力が全く異なりました。だからこそお互いに自分には無いものを求めていましたね。


寺嶋:しかし、趣味というか、行きつくところは同じで、“不整地で使える走行モジュール”というのは、共通していました。私は、クローラーのモジュールを提供して、現場の資材と組み合わせれば現場で必要なものを作れるという構想を持っていましたし、卒業論文でもありました。しかし要素技術だけがあっても廃れてしまうもので、要素技術は活用されてこそ社会に貢献できるものだと今なら語ることができます。そういう意味では、私たちは出会うべくして出会ったという感覚です。

 

 

【Phase.2】起業

 

― どのタイミングで起業にいたったのでしょうか。

 

嘉数:2015年、先のコンテスト後に私がホープフィールドという会社を立ち上げました。そして寺嶋がエンジニアとしてジョインしています。

 

寺嶋:私の承認欲求と好奇心欲求を満たしてくれた嘉数についていこうと思いました。嘉数は私が作っていた技術が社会に活かされるという欲求を満たしてくれましたし、私の技術力も評価してくれました。1人で開発品を作っていることも楽しいですが、他者からの評価が欲しくないわけではありませんし、私はとくに承認欲求が強いほうだと自覚していました。ベンチャー企業を立ち上げるという選択肢も、それまでの私には無かったので、とても新鮮で魅力的に映りましたね。


嘉数:会社として走り出して、最初に参画したプロジェクトは、東京農工大学の研究室から発注された小型草刈り機用の走行装置でした。そこではじめてクローラーモジュールの初期バージョンができあがりました。

 

当時、私たちが手掛けていたプロダクトは、まだ粗削りだったので、先方の要望に合わせる必要がありました。


端的に説明すると、寺嶋の開発品では樹脂製のベルトを使用していましたが、要望に合わせるためにはチェーンのベルトにする必要がありました。しかし、寺嶋からは「俺の作りたい形ではない」と言われます。

 

当時開発したクローラー

 

寺嶋:自分自身のこだわりを優先したいので、自分が作ったものに他人の意見を反映させることに疑問を感じました。

 

嘉数:プロジェクトの企画を担当する私としてはとても頭が痛い話ではありますが、しかし、その一方で寺嶋の技術力をリスペクトしていたので、なんとかどうにか説得して前に進めようとしました。

 

寺嶋:嘉数の話には、一定の合理性がありました。そして自分の作っていたものの弱点は理解していました。要望された改良点は、まさに自分の弱点を指摘されたようなカタチになりました。そして「お客さんからの要望」と言われれば、それに応えざるを得ません。だから、嘉数の言うとおりに設計しようと腹落ちしました。寺嶋:自分自身のこだわりを優先したいので、自分が作ったものに他人の意見を反映させることに疑問を感じました。

 

― 寺嶋さんは単なる頑固者ではなかったということですね。

 

嘉数:説得に時間はかかりました…。そして、実はそのプロジェクトの後すぐに、寺嶋が独立することになりました。


寺嶋:当時、溜まっていた不満が爆発したんですね。そのプロジェクトでは“誰かのため”のモノづくりをしていましたが、そのうちに“俺のモノづくりはこんなもんじゃない!”と思うようになっていました。同時に私が在籍する長岡と嘉数がいる東京との間の物理的な距離にも辛さを感じていました。自分だけオンラインで参加するときもありましたが、どうしても疎外感を感じてしまいます。


会社の方向性としては間違っていませんでしたが、当時の私の一番の関心事はクローラーユニットではなく、クローラーベルトでした。しかしお客さんの要望を叶えるためには、私が考えていたクローラーベルトではダメだったので、そのときに声をかけてくれた他の会社の社長の誘いに乗ってしまいました。

 

当時の私は大学院生で長岡に住んでいたこともあり、農業関係よりも「雪国でのクローラーベルト」ということをテーマにしたいと考えていました。自分で作りたいものを作るために、声をかけてくれた社長に支援していただき、長岡で独立起業。企業支援の補助金などを得て作りました。それがCuboRexのスタートです。

 

創業当初の様子。出展:ものづくり総合支援施設「匠の駅」

 

嘉数:私個人としても乗り物が大好きだったので、寺嶋から「乗り物を作るために独立する」と言われたときは率直に面白そうだと喜びました。なので快く送り出せました。

 

― 寺嶋さんが長岡で起業したのですね。

 

寺嶋:22歳だったので、当時は新潟県で最年少創業でした。2016年~2017年は雪国向けの乗り物を開発していましたが、売上などはまったく考えていなかったので、会社事業としてはうまくいきませんでした。部活の延長線上という感覚でしたね。


何度もチームを壊してしまったり、株式の問題を抱えたりしたのち、2018年に東京に行きました。例の、声をかけてくれた社長が共同経営者でしたが、方向性が大きく違ったため、その人から株式をすべて買い戻し、会社を整理することにしました。やはり東京の方がビジネスチャンスは多いですよね。貢献したいのは新潟などの雪国ですが、チャンスは東京の方があると考えました。


そして、東京に来てからも自分流で一年ほどやってみました。チームを組んでいましたが、そのメンバーの1人にお金を使い込まれ…。人や組織といった部分の難しさを痛感し、精神的にも結構参ってしまいました。

 

 

【Phase.3】再出発

 

ー どのようなきっかけで再び一緒にやることになったのですか?

 

寺嶋:私が白旗を上げました。とりあえず誰かに相談しようと思い、嘉数に連絡して会いました。秋葉原駅前のパスタ屋さんのランチだったかな。


嘉数:それまでも、寺嶋とは一年に一度は会っていましたが、そこまで酷い状況だったというのはそのときに初めて聞きました。そしてその場で、寺嶋から一緒にやろうと誘われたのですが、正直悩みました。寺嶋は能力と馬力はあるものの、他人にも自分と同じ能力と思想を求めてしまう性格。常に自分ではなく「辞めていったメンバーが悪い」と発言していました。


しかしその時はじめて、そんな寺嶋から「自分”も”悪いのかもしれない」という言葉が出てきて、それを聞いたときに“一緒にやれるかもしれない”と感じました。寺嶋の人となりは分かっているつもりだったので、寺嶋とチームを組み続けるキツさも知っていました。なので「自分も悪かったかもしれない」という言葉が寺嶋の口から出てきたのは、私にとってとても大きな出来事でした。


寺嶋:当時は、“俺は頑張っている。そこについて来れない人が悪い”という思想が根本にありました。しかし何度も失敗してようやく“もしかするとこの考え方もよくないのでは”と思うようになっていました。それには回答があるわけではありませんでしたが、嘉数ならわかるかもしれないと思い相談していました。身近にいる経営者、大人ではなく一緒に走れる経営者として頭に浮かんだのが嘉数だったということです。相談している中でポロっと「一緒にやらないか」という言葉が出たという感覚です。


嘉数:当時すでに、起業したホープフィールドという会社は事業を前進させることができず解散していました。そこで私は「半年間の期間限定の業務委託で、半年後には終わる前提でいて欲しい。半年以上寺嶋と走れる自信はない」という条件を出しました。私は寺嶋の良いところも悪いところも理解していたつもりなので、一緒にやってみたいけれども、半年以上は一緒にいられないとも思っていました。そうして2019年2月に2人体制が始まりました。

 

― 2人体制になっていかがでしたか?

 

寺嶋:その当時は雪国用の乗り物を作ることを事業としていたので、私はそれをどんどん進めたいと考えていましたし、実際に私の母校からも案件を受けていました。

 

当時作ったもの。現在も長岡技術科学大学に展示されている

 

嘉数:私は経営を立て直すつもりでした。受注を受けた商品は納品できたものの、そのあとの仕事は全くないということがわかりました。なので、再出発後の1か月は技術の内容を知り、寺嶋と共に機械設計を脳内でできるようになるまで資料を読み、動かし、リサーチをし、語り合いました。そして寺嶋に「つくりたいもの(乗り物)は3年かかるのでは?お金3か月分しかないけど」と問いかけても「作る」としか回答がない。


そんな状態でしたが、ホープフィールド時代に一緒に作ったロボット用クローラーが突破口になるのでは?という感覚も湧いてきて、そちらの開発案を提示しました。

 

 

寺嶋:しかし、ホープフィールド時代のクローラーは新規技術ではなかったので、私の興味が沸きませんでした。一方で”会社立て直しの突破口としてはわかる”と思いました。


嘉数:この“わかる”という言葉から、“技術と市場に対して一定の理解はできているのだな”という私の自信につながり、そこから3か月くらい説得して納得させることができました。その辺りの詳細は割愛しますが、私の頭に人生で初めて10円ハゲができてました。


寺嶋:そして、日頃からお世話になっている長岡でロボットの大会があるということで、売り込みに行ってみると、3セットほど受注がきまりました。数十万円の売上でしたが、当時としては半年分の売上と同等です。これはイケると手ごたえを感じました。技術はまだまだでしたが、このコンセプトはロボット業界の需要に直結しているのではないかと感じました。

 

当時の様子 ロボカップ2019 長岡大会での様子

 

嘉数:また、当時は同時並行で例の一輪車電動化キット「E-cat kit」を建設業界にと考えていたのですが、中々受注につながりませんでした。そんな時に寺嶋から「地元の和歌山のみかん農家になら絶対売れる」という話があって、寺嶋の実家に飛び込み、泊まり込みで連日ミカン農家へ売り込むことになりました。それで10セットほど受注することができました。

 

実家はお寺で寺嶋はお寺の長男です。”見ず知らずの東京の若者”ではなく”地元の頑張ってる若者”として信用を得て購入してもらえたのはびっくりするほど運が良かったなと思います。

 

和歌山県有田で売り込み

 

嘉数:このねこ車電動化キットとロボット用クローラーが、ビジネスのターニングポイントになりました。この後は、徐々に寺嶋が納得してラインナップを増やし進めることができています。


寺嶋:要は技術開発だけじゃなく、製品として落とし込めることが重要だなと肌身に感じることができましたね。

 

 

【Phase.4】社長交代劇の舞台裏

 

― 今回は、寺嶋さんから嘉数さんに、会社の代表権が移行します。その意図するところを教えてください。

 

寺嶋:2019年に事業の種ができてプロダクトが成長し、社員が増えていきました。優秀なエンジニアも集まり、私たちがつくった初期の製品とは比べものにならないほど、優れた製品へと成長したのは彼らの技術力のおかげです。そのおかげで、会社として「不整地のパイオニア」というバリューを掲げることができています。

 

メイカーフェア2022年、社内メンバー&CuGoユーザーとの集合写真

 

寺嶋:もはやベンチャーからメーカーになってきていると思うのですが、そうなってくると私がエンジニアというよりマネジメント領域での役割が多くなってきて、正直苦手で、きつくなってきました。


私が成長するか、外部から呼んでくるかの二択を迫られましたが、交代できるような人材はなかなか見つかりませんでした。なぜなら我々が市場の開拓者ということもあり、同じ思考の人はほとんど存在していない、もしくは似たような人がいても、既に何かをやっていて忙しいという人ばかりでした。そこで一旦、後継者が見つかるまで私が継続するつもりでした。ところが想像以上に私が疲弊しており、2022年の11月に体調を崩してしまいました。医師からも「ストレスが原因です」と言われたのですが、人一倍メンタルが強い自負があったので、正直驚きました。


会社としては、勢いがついてどんどん成熟していくため、社会性が求められていくようになります。さらに私はトライ&エラーで物事を進めたいタイプですが、巻き込む人がどんどん増えて、「試す」という行為がどんどんしづらくなっていきます。「試す」が好きにできないのはとても辛かったです。

 

代表引き継ぎ式にて当時の心境を吐露する寺嶋

 

嘉数:2021年くらいから社内的な社長は嘉数、社外的な社長は寺嶋というポジション分けでつなぎとしては回っていたのですが、もう少し人が増えてくるとそれも続けるのは難しそう、と感じていました。


寺嶋:例えば、私が外部から案件をもってきたとして、では社内のリソースをどのように使って進めるかを考えるときに、社内状況の把握やすり合わせをする必要がありますが、そこがストレスですね。苦しみながらも対応はしていたので、“1〜2年はまだ社長交代劇はないな”と思ってはいました。ただ2022年11月~12月に、仕事とプライベートの両面でストレスレベルがきゅっと上がって参ってしまいました。

 

嘉数:急に連絡が取りづらくなり、個人としては心配でなりませんでしたが、会社としては“寺嶋がいない前提”で即座に対応を取らなければいけません。板挟みでした。


ここで迷いを取っ払ったのが、2019年再出発当初の2人の決め事です。


最初の半年で「CuboRexと寺嶋どちらを大切にするか」という対話を重ねていました。頻繁に「それは寺嶋の言葉なのか会社の言葉なのかどっち?」という問いかけをよくしていて、それは個人とチームを区別していない、自分と他人を区別していない寺嶋と冷静にコミュニケーションを取るための手段でした。


そこからの発展で「我々2人から始まるチームは何を目的に、何を優先とするのか?」という問いが生まれ、最終的に「”不整地のパイオニアCuboRex”という枠を大きくするのが一番の目標。個としての我や立場は2番手3番手以下」と双方で合意していたんです。


これが後々効いてきました。つまり寺嶋が体調を崩した時、私が行動すべき優先順位がすぐに定まりました。会社を守る、社員を守る、会社を大きく成長させる、これらの要件を最優先とした結果、代表交代が必要と決断できます。そして寺嶋が語ったように理想の社長を外から呼び込むことは叶わないので「やるぞ」と腹が決まりました。


寺嶋:そもそも嘉数がいなければ社長交代もありえませんし、会社がここまで成長もしていませんけどね。結局、信頼ができて、会社を託せていけるのは嘉数しかいなかったということです。

 

2020年当時の写真

 

 

【Phase.5】これから

 

― 寺嶋さんの、今後のCuboRexとの関わり方を教えてください。

 

寺嶋:今後、私は創業者として“寺嶋とCuboRex”という感じで、会社の一員ではなく、外部の対等なパートナーとしての関わり方になります。CuboRexと協力して業界を盛り上げる活動を行っていこうと考えています。


正直、息苦しさは感じていたので一旦一人で自由に活動する期間が欲しいと思っています。私も嘉数も今年30歳で、高専での基礎研究を始めた期間から数えるとちょうど10年たっているのでちょうどいいかと思います。また、会社も業界も私がいなくても成長できると確信しています。CuboRexは顧客=開発仲間という考えを常に持っていて、支えてくれる顧客も増えており、これだったらいけるだろうと感じています。


会社については、嘉数のようにずっと支えてくれた人物がトップにいるので安心できます。なので私はどちらかというよりは業界の”活動家”というようなポジションで活躍したいと思っています。


嘉数:活動家としての展望を話す寺嶋が本当にイキイキとしていて、やっと肩の荷を下ろすことができたのかなと思っています。

 

代表引き継ぎ式でのひと幕

 

嘉数:これまでやってきたことを足元を固めながら続けるということに尽きると思います。メーカーとしての製品製造開発を意識しながら、頼れる社員の皆とこれまでやってきたことを活かしていければ大丈夫です。実は2年前、不覚にも私と寺嶋が同時にコロナに感染。私はホテル療養、寺嶋に至っては入院になりましたが、会社は滞りなく回っていました。今回の社長交代も急に決まりましたが、皆がうまくフォローに回ってくれて業務に支障も出ませんでした。こうした良いチームを作れたことが誇りだと思っています。


事業の展開については、”複雑性”をキーとして伝えさせてください。


CuboRexの現在の製品、ロボット用クローラーや運搬一輪車電動化キットは、モーター・フレーム・バッテリー・コントローラー等を組み合わせており、内包する複雑性としては”中”だと定義しています。

 

ここから1~2年後の短期では、シンプルでもっと複雑でないコアな物を世に出していく予定です。具体的にはモーターやバッテリーなどに当たります。私たちが開拓している新市場に対し既存のパーツでは適さない場面が多いためでもあり、長期的に技術的な競合優位性を築くためでもあります。

 

そして2~4年後の中期では逆にもっと複雑なもの、例えばプラントの設備内部を掃除するロボットなどをリリースする予定です。こうした複雑性の高いサービスロボットは市場開拓が難しい反面、真に課題を解決することができれば付加価値が高く大きなビジネスになります。


また、寺嶋とともに新たなスローガンとして「CRAWL YOUR FIELD」を定めました。

 

 

これには、どんな現場でも泥臭く、不整地のパイオニアとしての価値を発揮し続けるという決意が込められており、海外展開を見据えた試みでもあります。


今後とも寺嶋と共に業界の発展に貢献して参りますので、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

 

ー 2時間ほどのインタビューでしたが、当時の情景がうかび涙が出ました。熱いお話聞かせていただきありがとうございました。(インタビュー:伊藤)

 

2023年2月 代表引き継ぎ式にて

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